名古屋およびその周辺の地盤災害(7)

e)宝永および安政の地震との比較

宝永及び安改元年の両地震は、東南海地震と同じように、外側地震帯の活動によるもので、この際の名古屋における被害状況の一端を、名古屋市史から抜粋してみる。
宝永4年10月4日の地震(1707年10月28日、M=8.4)
10月4日、午後2時頃に大地震あり、城中の諸門あるいは倒れ、あるいは傾き、天守もぬり壁所々剥落す。町屋ほ甚しき損害なかりしも諸士屋敷の練塀は多く10間20間、あるいは5間、7間ずつ崩れ、寺社のとうろう石塔もまた多く倒る。熱田の燈明台も倒れて、海岸は所々地裂けて泥を噴出し、あるいは所々陥落す。加うるに小津波あり、領内の堤防破壊するもの5000間余りな。その後微震数日連続す。
安改元年11月4日(1854年12月23日、M=8.4)
11月4日午前9時頃、およそ1時間にわたる大地震あり。熱田の海岸に高潮起りて神戸町へ海水浸入す。城内諸門、寺社武家屋敷など、皆多少の損害を被らざるなく、所々に倒壊せる家屋あり。
その後数日絶えず余震ありしかば、人心胸々として安からず。広小路、巾下などの広場に居を占め、食を運びて、避難の準備を怠らざりき。(松涛樟筆、雄園漫録、見聞雑割)。
当時の市街は、ほとんど洪積層である熱田台地上にあり、沖積平地の軟弱地盤地帯にほ住家も少ないため、東南海地震のように多数の倒壊家屋を出すほどの被害はなかったと思われる。
熱田台地上の被害程度について、濃尾地震と東南海地震との比較については、一般に地震の被害はしばしば過大に報告されること、東南海地震の資料が戦時中のため欠除していることなどにより速断しにくい。
しかし傾向としては、東南海地震のように震害は軟弱地盤においてはなはだしかったものと考えてよいであろう。

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