伝建地区を歩く 有松(1)

伝建タイトル
有松の街 絵
こんにちは。
皆さんは伝統的建造物群保存地区というものはご存知でしょうか。
昭和50年の文化財保護法の改正によって、伝統的建造物群保存地区の制度が発足し、城下町、宿場町、門前町など全国各地に残る歴史的な集落・町並みの保存が図られるようになりました。
平成29年12月現在、現在重要伝統的建造物群保存地区は97市町村で117地区、約28,000件の伝統的建造物及び環境物件が特定され保護されています。

私、株式会社アオキ建築の代表取締役の青木隆明は、現在、伝統的建造物群保存地区について調べております。
平成29年度時点での登録地区114ヶ所はすべて実際に訪れて写真撮影や付近の散策を行い、各地区の研究をさせていただいていることから、是非ご紹介させて頂きたいと思います。
今回題材としている「有松」は、名古屋市内の西部、緑区にある歴史的な街です。「有松絞り」の街として、伝統的建造物群保存地区の中でもよく知られています。ここでは、有松の時代背景をご紹介し、時代の流れとともに少し違う視点で有松の街を歩き、歴史を歩きたいと思います。
有松の時代の流れを調べてみると、まず、隆盛の時期が4つ、衰退の時期が4つあることに気がつきました。まずはそこへたどり着くまでの有松の成り立ちからご紹介させていただきます。
ご存知の通り有松は、池鯉鮒(ちりゅう)宿と鳴海宿とのあいだにできた間宿(あいだのしゅく)で、江戸時代に五街道を整備した際、その一つである東海道に伝馬制の宿場制度を定めて東海道五十三次が配置されたことから生まれました。
1608年には尾州藩によって開発が進み、同年12月 譜役免除(現在でいう免税)の特典を与えることで移住を奨励されています。
第1陣として、長五郎・九左衛門・九兵衛・勘次・弥七・庄九郎・新助・治郎作の八名が移住、その後1613年に五郎左衛門をはじめとする第2陣が七名移住しましたが、周囲の耕地も乏しく、農業で生計を立てるまでには到らなかったものと考えられます。
第一陣が来村してから十数年後には、何とか飢えることなく十五家族の生活に見通しが立つようになったため、1625年、第3陣となる兵左衛門をはじめとした十四名が呼び寄せられ、合計二十九家族が有松での移住生活を始め、新村としての有松が始まったのです。
当初はやはり村の生活は苦しかったと思われます。第1陣の一人である竹田庄九郎が名古屋城の築城のために訪れた九州の人々の衣装から絞り染めのヒントを得て、それを応用した手ぬぐいを土産として売るようになったと言われていますが、鳴海宿までの距離も近く、人通りも少なかったようで、思うほどの効果はなかったようです。しかし、参勤交代が制度化された1635年以降には、東海道に町人が数多く通りはじめ、村の生活も徐々によくなっていったと思われます。
その後、寛永の大飢饉や慶安武蔵地震等社会的に不安定な時期ののち、有松の一番の転機になったのが1655年、豊後の人 三浦氏の移住です。この三浦氏の妻により、豊後絞りの技法の指導が行われたことで有松絞りの質が向上され、有松は大きな進歩を遂げたのです。
次回はこれ以降の有松について、歴史上にそれぞれ4つずつある「隆盛期」と「衰退期」に着目しながら詳しく見ていきます。
有松写真1
(写真説明)町中を焼き尽くした大火の教訓からウダツと蔵造りの蔵により防火対策された街並み

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