伝建地区を歩く 有松(3)

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【▼第2の衰退期】1833~1876年
1833年に起こった天保の大飢饉から幕末、西南戦争までは、有松の第2の衰退期となる。
天保の改革で厳しい倹約令が出たことで、絹布絞は大打撃を受ける。その後、天保の改革は失敗し倹約令も解除されたが、外国船の渡来・開港に人心が動揺、著しく物価が上昇し庶民の生活が圧迫された。
天保の改革以降も、表面化してきた反幕府運動が社会不安を激化し、影響は東海道通行の減少に表れた。長州征伐(1863)以降に全国で争乱が拡大したことで東海道には多数の軍馬が往来することになり、参勤交代の大名行列や伊勢参りなどの庶民の旅行が姿を消し、東海道の旅人を最大の顧客としていた有松の経済に打撃を与えてしまう。西南戦争(1877年)が終戦し平和が回復しても、東海道の通行は回復せず、有松は著しく衰退した。
また、開港以来の経済変動で全国的な物価も高騰。有松絞の販路を狭める大きな要因となったほか、庶民の経済生活も激しい物価の値上がりに圧迫され、購買力が衰退した。
さらには、幕末以降凶作に苦しむ領民の生活扶助の一つとして有松絞りの独占権も解除されたため、名古屋・鳴海・大高方面に絞商(対抗勢力)が出現し、有松の減退に拍車をかけた。
有松絞りの立場は困窮し衰微して仕事が減少したうえに、物価騰貴や販売不振等が追い打ちとなり生計に支障をきたすほどとなった。かつて有力な絞商と目されていた家でさえこの変動期に完全に没落した家が数軒出てしまったほどである。

【▲第3の隆盛期】 1877~1899年
1867年、江戸-大阪間を結ぶ蒸気船の定期航路が開設された。また、明治時代初頭の国鉄東海道線の開通によって航路・陸路が整備され、東海道を歩行する旅客は姿を消した。絞商は店頭での販売を廃して、各地に新しく販路を開拓し純然たる卸問屋に変貌していくこととなる。
西南戦争以降は好景気を迎え、鈴木金蔵の新筋絞や竹田林三郎の養老絞の考案が有松絞再興の基礎となった。その後、不換紙幣整理による不景気があり生産量は一旦激減したが、経済が安定してくると有松の再興は不動のものとなる。
1889年 国鉄東海道線が全通し、卸商品の大半を名古屋駅・大高駅で貨物運送に出すようになった頃には、鈴木・竹田、両先覚者の活躍に刺激された有松の業者の間で積極的に発展をはかろうとする機運が生まれる。日清戦争(1895~1896年)後は、販路の拡充や新しい技法の開発などの努力が実り、生産量も増加、かつての行政上の特権は失われたが、新技法の開発と共に特許の取得も行われ、これらの特許に守られて有松絞りは全盛期を迎えることとなり、旧時代の繁栄をはるかに凌ぐ隆盛を極めることができた。

【▼第3の衰退期】 1904~1905年
第3の減退期は、日露戦争(1904~1905年)の影響である。日露戦争最中の著しい経済不振により、産額は半減した。

【▲第4の隆盛期】1915~1925年
第一次世界大戦により欧州の戦乱の漁夫の利を得て大正バブルがはじまる。有松もその好景気に乗って、著しく産額を増した。
熱田神宮前-笠寺間のみであった愛知電気鉄道が、1915年5月に笠寺-鳴海町有松裏間まで区間を広げ、有松町の交通運輸は飛躍的に発展する。これにより、経済が活発となり大いに繁栄を享受したのだ。
これが最後の隆盛期となるが、戦後も、大正9年頃までは有松の景気は良く、社会一般に絞模様が流行したことにより最大の黄金期を迎えることになった。

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