伝統的建造物群保存地区について、平成29年度時点での登録地区は全114ヶ所となっています。今回はその中から、豊田市にある「足助」をピックアップしました。
2011年6月20日に伝統的建造物群保存地区として登録された足助ですが、現在のところ足助の起源に関する正確な詳細は不明です。今回は「塩の道」に注目し、私なりの解釈も交えながら大まかな起源を推測していきたいと思います。
時はさかのぼること7世紀後半。律令国家の広域行政区画である五畿七道の原型が出来上がったと言われています。五畿は山城・大和・河内・和泉・摂津の畿内の5ヵ国をさし,七道は東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道をさしますが、この七道の内、東山道と東海道を南北につなぐ街道を「塩の道」と呼びました。塩の道はかつて各地に数多く存在しましたが、足助街道と三州街道からなるこの塩の道は、南塩ルートと言われ、太平洋側から信濃へ塩を運ぶ道としてとして栄えました。この足助街道と三州街道の中継地としてにぎわいを見せた宿場町が今回ご紹介する「足助」のルーツ、「足助宿」です。足助宿は景気の変動にあまり左右されなかったようで、その背景には、ひとが生きるうえで必ず必要とされる「塩」が寄与していたと考えられます。
足助宿の発展を考えるにあたり、まずは東山道と東海道の歴史から見ていきましょう。東山道は現在の中山道のルーツで、日本有数の山岳地帯を通るため難所も多く、冬は雪に埋もれてしまう道でもありました。しかし、大きな河川がなく川止めの困難を避ける利点もあり、平安時代中頃(10世紀頃)までは、東山道が安全な道として好んで選ばれていたようです。その後、河川に架ける橋を作る技術力が向上するとともに、温暖な太平洋側を進む東海道が良く使われるようになり、江戸時代以降には日本の街道の代表格ともいえるまでに発展していきました。