では、東山道と東海道をつなぐ「塩の道」についても、もう少し詳しく触れたいと思います。
日本では岩塩がもともと少なく、内陸部は海水から塩を製塩するしかありませんでした。「塩の道」は海から内陸部へ塩や海鮮物を運ぶ重要な道だったのです。
そのひとつである、信濃へ塩を運んだ道には、日本海側からと太平洋側からの2つのルートが存在しました。日本海で製塩された塩(北塩)を、千国街道を通って塩尻まで運ぶ「北塩ルート」と、太平洋で製塩された塩(南塩)を塩尻まで運ぶ「南塩ルート」です。南塩ルートには、秋葉街道を通って塩尻まで行く道と、先にご紹介した足助街道と三州街道(伊那街道とも言われる)を行く道がありました。
距離的に考えると北塩ルートのほうが近いのですが冬場等は天候が問題となり、また、南塩ルートはどちらの街道にも厳しい関所などがなく利用しやすい道であったため、多くが南塩ルートから運ばれていたようです。そして、三河湾の吉良で製塩→船で東海道 岡崎宿へ→足助街道・三州街道(足助宿経由)→信濃塩尻、という東海道が起点となる経路で運ばれていた伊那街道も、前述した東海道の発展とともににぎわいを見せていったのではないでしょうか。
また、塩の製塩技術も、弥生時代→直煮製塩、奈良時代→藻塩焼製塩、室町時代→揚浜式塩田製塩、江戸時代→入浜式塩田製塩 と、時代とともに進化していきました。室町時代の揚浜式塩田製塩までは、塩の道としての流通量はさほど増減はないと思われますが、室町時代後期に開発された入浜式塩田製塩では、遠浅での潮の満ち引きを利用してより多くの塩が製造できるようになったため、流通量の増加とともに塩の道も発展していったと思われます。南塩ルートの通り道である足助宿ももちろん例外ではなく、入浜式塩田製法の開発も足助宿の流通拡大に一役買っていたと想像できます。