では、日本の人口から見た足助宿の隆盛はどうだったのでしょう。
日本は、奈良時代から鎌倉時代までは急速な人口増加はなかったので、宿場町に関してもさほど発展はしていなかったと思われます。日本の人口が徐々に増え始めたのは室町時代の後期からで、これは入浜式塩田製塩の開発時期と重なります。想像の域を超えませんが、日本の人口の増加とともに製塩方法も進化していったのではないでしょうか。そして足助宿も、人口の増加、製塩技術の進歩とともに宿場町として、そして商家町としても形成され、発展していったのだと考えることができるのではないでしょうか。「敵に塩を送る」という故事のもとになっている、上杉謙信が仇敵 武田信玄へ塩を送ったという話もあるほど、人が生きていくうえで必ず必要とされる塩を中心とした物流だったので、人口の増加による影響は大きかったと考えられます。
以降の足助の歴史を辿ると、安永4年(1775年)の大火による町並み焼失からの再興や、明治時代の資本主義恐慌、中央線全線開通等の影響を受けての「塩の道」宿場町からの役割変化、観光による再復興等、やはりその時代時代での変化が町の在り方に大きな影響を与えていることが再認識できます。
また、再興の手段として近代化の選択をした有松とは違い、足助は地域の資産を有効に活用し、時代に寄り添って町の性質を柔軟に変化させていました。「香嵐渓」等観光開発による再復興も果たしましたが、最後は太平洋戦争による観光活動の禁止により戦後の人口流出に歯止めがきかず、現在は過疎地域に指定されています。再び、観光や景勝地として少しずつ持ち直してきているとはいえ、どの地域の問題でもある人口減少を食い止めることは難しいでしょう。足助には、昨年(2017年)訪れましたが、豊田市と合併したことにより、伝統的建造物群保存地区内の建物保全活動に活発に取り組んでいるような印象を受けました。地域の観光資源を有効活用し、歴史的価値の高い重要な街並みをこのまま保全していただけるよう願っています。