伝建地区を歩く 足助(4)

伝建タイトル
※以下「足助町の歴史」、「中馬の宿場足助の町並み」参照しています。
【▲隆盛期】 江戸時代初期~中期(1681年~1775年)
江戸時代の初期までは領主の交代がしばしばあったが、天和元年(1681年)、本多淡路守忠周が足助村に陣屋を置き7000石の交代寄合となった。
忠周は天和3年(1683年)に寺社奉行となったことから3000石の加増を受け、これにより合計1万石の大名として足助藩を立藩。
しかし貞享4年(1687年)、勤務怠慢から寺社奉行を免職され、2年後の元禄2年(1689年)には加増分の3000石を没収されて再び7000石の旗本寄合となったため、助藩は廃藩された。
元禄期(1688-1704年)になると、宿場的要素に加え、商業の中心地的要素が強まってきたため、在郷町としての景観を整えるようになる。「足助町」と呼ばれたり、私文書にも、「町」の名称が使われている。また、「御用商人」と呼ばれる大商人も出現した。
なお、旗本寄合本多氏は幕末まで存続し最後の当主は「本多忠陳」となる。実質的に町の形態をなしていた足助村を足助町に変えたものとも考えられ、元文5年(1740年)まで「足助町」の名前で年貢免定が出された。

安永4年(1775)に大火があり、足助川右岸の田町から新町までのほとんどが焼失した。

【▲隆盛期】江戸時代中期(1781年~1788年)
安永年間(1772-1781年)までは横ばいに近い軒数が、天明年間(1781-1788年)以後は急激な増加に転じる。一時的な落ち込みは見せるものの、安永以前からは15倍以上に増加する。
足助の商業的な発展が軒数の増加を招いたものと理解できる。

【▼衰退期】 江戸時代後期(1833年~1844年)
天保の大飢饉が起きる。
天保7年(1836年)、1万三千人余が参加して、三河最大級の百姓一揆ともいわれる「加茂一揆」が九久平(豊田市)周辺で起きているが、この一揆が最初の攻撃目標としていたのは、足助の大商人たちであった。足助村では、7名の商人が打ちこわしにあっている。

≪天保の大飢饉 詳細≫
天保7年は、全国的な大凶作で、米価は暴騰し、ことにこの地方のように山間地帯で、田に乏しい農民の困窮は甚だしかった。
一揆は、9月20日に始まった。
夜のうちに、松平村、九平村(現豊田市)など、加茂郡南部の村々の有志20名余りがひそかに集合し、米・酒などの安売り、頼母子の2年休会、領主に対する年金の卯相場の引き下げなどを要求事項として立ち上った。
 21日、夜から行動を起こし、まずは手はじめに滝脇村(豊田市)の庄屋を打ちこわして気勢をあげ、六所山・焙烙山を囲む村々(下山村・豊田市)の庄屋・米屋・酒屋などを打ちこわし、さらに各陣屋へ要求をつきつけて承認させ、次第に領主に対する反抗もあわらにしていった。
 一揆は勢力を増大しながら、23日の午後、足助の町へ入った。西町の酒造屋山田屋茂八宅・西町の穀物木市屋仁兵衛・本町紙屋鈴木利兵衛の空き家・本町酒屋上田屋喜左衛門宅・本町酒造家白木屋宗七を次々と打ちこわした。
一揆の激しさに驚いた本多陣屋役人が、一揆側の要求を全面的に受け入れ、その内容を高札にして張り出したので、さしもの一揆もようやくなくなり、鎮まることとなった。
 24日、夜明けに矢作川を川舟で渡り切り、3000余人が挙母城下へ押し寄せる。ところが、24日には、領主側の一揆対策がこれまでの消極策から強硬策へと変化したため、武力による領主側の反撃を受け、一揆側は不利な状況に追い込まれてしまった。
 
以上この一揆は、前後5日間にわたったもので参加者は、吉田・奥殿・挙母・岡崎・西尾の諸藩領と、15の旗本知行所ならびに幕府直轄地にわたる247ヶ所村の百姓で、11万人を超えた。
処刑された者は、主謀者の獄門をはじめ遠島・追放から過料まで含めると、総勢1万1,457人にのぼった。
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