この頃の船の近代化の歴史を見ると、弁才船(500石以下)→千石船(1000石以上)→千石船(1400石以上)→洋式船(帆船)→汽船→蒸気船というようにどんどん大型化が進みます。
江戸時代前中期は、千石船(1000石以上)が主流で、北海道では商港として、「松前」「江差」「箱館」の三港を開港していました。本州諸港との交通は、太平洋と比較して日本海の方が穏やかで西回り航路が人気だったため、一番多くの商人が集まり活気があった港は「松前」でした。東回り航路の「箱館」は、大阪との結びつきが強く、コンブ等の水産物の貿易で発展はしていましたが、三港のうちでは最下位の港だったようです。
しかし江戸時代後期になると、千石船(1400石以上)、洋式船(帆船)、汽船、蒸気船が登場し、水深が深い港が好まれるようになったため、もともと火山の火口で水深が深い港であった「箱館」は、船の大型化とともに、貿易港として、商業地としての発展が目覚ましくなっていきました。
また、開国による諸外国文化の流入も、幕末期の箱館に大きな変化をもたらしています。
安政元年(1854年),日米和親条約の締結により,江戸幕府は箱館と下田の開港を決定し,乗組員の休養や物資の補給地として、外国船も箱館港に盛んに入港し始めるようになりました。
その後,米,蘭,露,英,仏の欧米5カ国と修好通商条約が締結され,安政6年(1859年)に,箱館は長崎,横浜とともにわが国最初の対外貿易港として開港します。この影響により,領事館が新築されたり,キリスト教会が建てられるなど,異国情緒豊かな街並みが形成されていきました。
外国との交易港として開港されたことによって近代化が進むのも早く、造船や蒸気機械がいち早く導入されました。これにより、木材の製材や鉱山等の開発も進み、北海道の内陸部へつながる鉄道ができたことで、北海道内陸部の生産品や物資も箱館港で貿易できるようになったため、箱館はますます発展し、明治以降は,開拓使函館支庁が置かれるなど、北海道の政治,経済,文化の中心地として栄えるようになりました。