歴史的文献によると、仲町の原形は、高岡城完成時の初期の町割りですでに出来上がっていたようですが、この頃はまだ歴史的文献で触れられることはなく、「高岡」から「弘前」に改称されたのちに、仲町の一部が平地に形成されたとの記載を見つけることができました。
また、1646年(正保3年)の津軽弘前城の絵図によると、城北は足軽町・歩ノ者町・小人町・禰宜町および町屋に町割りされており、1648年(慶安元年)に津軽藩が幕府に提出した文献にも、足軽町、歩ノ者町という記載があります。
その後、藩士土着令による藩士の移動と土着令廃止による移動で、比較的身分の高い藩士も城下町に武家屋敷を持つようになり、足軽町、歩ノ者町あたりは、城郭外の侍町「若党町」となりました。その後、弘前城の北側、現在の若党町・馬喰町・小人町の辺りは「仲町」と総称され、御家中屋敷と呼ばれるようになり、今でも武家屋敷の旧姿を現代に伝えています。
さて、仲町の成り立ちがわかったところで、ここからは弘前の歴史にもう少し踏み込んで、その町並みや風景がどうできていったのかを紐解いていきたいと思います。
弘前の歴史を辿り、私が感じた重要な2つのキーワードは「飢餓」と「軍事」です。
「飢餓」に関して、津軽では、江戸時代の13世紀から19世紀かけて小氷河期に入っており、300年で47回もの凶作がありました。この凶作の中には、五大飢餓と言われる大凶作(元和飢餓、元禄飢餓、宝暦飢餓、天明飢餓、天保飢餓)も含まれており、何十万人の餓死者が発生したと言われています。