「軍事」に関しては、関ヶ原の戦い、明治維新前後、太平洋戦争までの3つのポイントがあります。
■関ヶ原の戦い
先にも触れましたが、弘前藩は徳川家康の西軍に着くことにより、戦後、上州大館領の二千石を加増され、家格4万7千石となった。これにより、近世大名として、1603年(慶長8年)に津軽藩(弘前藩)として高岡城下町(弘前城)をつくることができ、五大飢餓があったものの城下町の発展に支障はなかったと思われる。
■明治維新
明治維新前後(1797年~1821年)は、蝦夷地警備が大きな財政的負担となっていく。
この警備は28年間行われ、藩財政の困窮は民衆や百姓への大きな負担となり、藩士や領民は、経済的・肉体的に過大な負担を負うこととなった。具体的には、郷夫として蝦夷地警備に動員された出兵総数の大半を百姓が占めていたため、労働力不足となり、農耕に直接影響を与えており、開発と蝦夷地警備は相乗的に農村を疲弊させていった。
しかし、1797年(寛政9年)11月、山田剛太郎ら295人が箱館(函館)を警備した恩賞として、1805年(文化2年)に津軽藩は七万石に昇格、1808年(文化5年)には家格十万石に昇進することができている。
1855年(安政2年)には、アメリカ国使との開国交渉がまとまり、箱館を開港することになったため、津軽藩(弘前藩)に対して、幕府より蝦夷地警衛再開の命令が下り、箱館に本陣屋を構えることになった。この警備は徳川幕府が崩壊するまで13年間続いた。
1868年(慶応4年)になり、奥羽両国(東北地方)が薩長の新政府の態度に反発、東北の諸藩25藩の代表が集り、同盟を結成した。その後、北越六藩も参加し、奥羽越列同盟となり、新政府軍である薩長軍に対処することになったが、新政府軍の勢いが優勢だったため、秋田・津軽は素早く転身して新政府軍に加勢し、青森県の礎を築くことになった。また、奥羽戦争・箱館戦争においても新政府軍に加勢したので、弘前市域は戦場にはならなかった。
1869年(明治11年)になると、版籍奉還によって大名はすべて消滅したが、藩という名の行政機関は残った。
明治に入っても、青森県で最大の都市は弘前であったので、1871年(明治4年)に弘前県が誕生したが、青森県の初代知事が青森市に県庁を移したことにより、弘前県は青森県と改称された。県庁を青森に奪われた弘前は、その後人口の流出が続き、特別の産業もないまま急速に衰退。最盛期には年間39,000人を数えた人口が、1889年(明治22年)には31,000人と、8,000人の人口減少に見舞われ、大きな危機感を持つようになり、城下町弘前の住民生活も大きく転換点を向かえることになった。
1894年(明治27年)には弘前から青森まで鉄道が開通。
1895年(明治29年)に軍備拡張の必要性から増設された6個師団の一つ、八師団軍が、弘前の都市に多大なる経済発展をもたらし、新たな商都・軍都としての弘前が始まる。
産業の発達を刺激し、また、商業地域も影響して市街地の変貌をもたらした。その後、軍事施設や公共的建物等が次々に建てられ、「軍都弘前」が誕生していく。
その結果、弘前市の人口は増加。弘前の経済的発展は昭和恐慌の前まで続くことになった。