そして仙台藩伊達政宗は江戸時代に入り国替えで現在の仙台に居城、仙台城を構え、太平洋に面することができたことが、金ケ崎の発展に大きく寄与したと思います。
伊達政宗が北上川の特性を理解し、川の氾濫にも悩まされたが堤防を築き氾濫を防止しつつ新たな新田を造ったり河川舟運の環境を整えることに力を入れた。
また慶長十年(1605)から寛永3年(1626)までの長期間にわたる工事で石巻の港を開港させ、船の大型化により江戸への太平洋ルートの東回り航路の拠点港を完成させた仙台藩の北上川船運が急速に発展していった。
諸国の廻船が集まり商人のなどが北上川を遡るようになり、この地方にまで進出するようになった。
そのことで伊達政宗が内陸の物資を江戸に送るルートを確保し新田開発で石数を増やし、余剰米を農民から買い取りで江戸の人口増を見越して政策を作り込み伊達政宗のすごさを感じることができました。
また、江刺や東山から木材を買い北上川を筏で下ろし石巻に貯木していたが、寛永18年(1641)江戸大火のとき、これを江戸に送り巨万の利を得た慶安4年(1651)や明暦3年(1657)の江戸大火復興で木材を供給し巨利を得ている。
この利益をもって藩の財政源とした。その後も仙台藩は江戸廻米のために、積極的に新田開発をすすめた。