江戸の町の人口増により寛文期(一六六一~一六七二) になると、藩直轄の大規模な新田開発が行なわれた。その後も、新田開発が活発に行われた。寛文期には新田が急増した。
藩の財政も潤うことになった。
しかし、いかにいい仙台藩の政策であったとしても、天災には勝つことができず、近世の大凶作・大飢饉は、宝暦5年から宝暦7年の飢饉、天明3年から天明6年を天明の飢饉、天保4年から天保9年を天保の飢饉の三大飢饉には無力で仙台藩では宝暦の飢饉では3万人の犠牲者、天明の飢餓では25万人の犠牲者があったそうである。。
明治期に入り、明治2年(1869)、明治35年(1902)、明治38年(1905)の3度の凶作があり、特に明治35年と同38年が特に被害が大きかった。
昭和期に入っても、昭和9年にも大凶作があり、仙台の金ケ崎に限らず東北地域では天災である凶作に悩まされている。
北上川で栄えた金ケ崎も江戸時代後半の天災や明治維新の影響で一時は河川舟運は停滞し休航していたが盛岡商人の斎藤氏により試行錯誤の上、明治18年から船運の復活しすることとができ、蒸気船で東京から石巻を就航させた海運は順調に業績を伸ばしたが、明治中期からは近代化による交通システムの変化に翻弄されることになる。
明治23年に一関から盛岡間が開通し明治24年には盛岡から青森間が開通したことで上野から青森までの東北本線が全線開通したが、そのことによって河川舟運及び海運の停滞で金ケ崎にも減退することになった。