さて、ここからは黒石市中町の歴史にもう少し踏み込んで、その町並みや風景がどうできていったのかを紐解いていきたいと思います。
まずは、津軽統一後に為信が居城していたお城ですが、これは津軽田舎郡の地頭職を務めていた工藤右衛門尉貞行が境松付近に築いた「黒石城」と呼ばれるお城であったと云われています。
慶長七年 (1602年)、津軽統一の際に大修築され、「旧黒石城」となって、為信が孫の大熊とともに一時居城していましたが、その後、慶長15年(1610年)に高岡城(弘前城)が築かれる際に、築城材料として取り壊され、弘前に運ばれて廃城。その後、明暦2年(1656年)には、前述にもあった通り、黒石初代藩主信英が陣屋を築き、この黒石陣屋が「黒石城」と呼ばれることもあったようです。
信英は、陣屋を造るとともに、分知以前からあった古い町並みに侍町、職人町、商人町を加えて、新しい町割りを行いました。これが現在「黒石中町」の町並みの起源となっています。
また、陣屋ができたのち、羽州街道の脇街道的な存在である「乳井街道」、通称「乳井通り」と呼ばれる街道が整備され、北上で青森まで行く道のりが6キロ程度短縮されました。
煩雑した弘前城下を避けて北上出来る為、弘前城下に用がない旅人や商人にとっては使い勝手の良い街道だったと思われます。
参勤路として伊勢参宮にも利用され、商業地としての発展にも良い環境であったと思われます。
こうした状況が幸いして、本家の弘前藩よりも商業地として大きな発展した、今回の黒石市発展のポイントとして重要になってくるキーワードは「津軽信英プラス近江商人プラスねぷた祭り」がこの黒石市中町のまちづくり発展に寄与した大事なキーワードと考えられます。