伝建地区を歩く 黒石(3)

伝建タイトル
高岡城(弘前城)の築城後の津軽信英は元和2年に弘前藩2代目津軽信枚の次男として江戸の藩邸にて生まれ母は松平元康の娘で家康の幼女でのちに、22歳で旗本になる。
この特別な待遇を得られたのは家康の血縁だったことが大きく作用されたいたといわれている。
また弘前藩第3代目藩主の死去後起きた津軽家の相続問題でも当事者でありながら何も処罰なく、5000石を与えられ黒石藩の分知 領主としてそして、弘前藩の4代藩主 津軽信政の後見人としての待遇を得られた特殊的な要因であったと考えられる。
信英は、黒石藩の領主になったのち、陣屋やまちづくり、家臣団の雇用、街道の整備等を積極的に行ったと思われ黒石領は5000石となっていたが実質は10000石あったともいわれている。
また、現在もみられる町並みやアーケード(こみせ)をつくつたのも信英で、他の伝統的建造物群の指定地区でも見かけることがあまりなく大変貴重な街並みをつくつたのも信英であった。
また、弘前藩の周辺には黒石藩に比較して、多くの耕作地があり、また新田開発に積極的で黒石藩周辺の農民が弘前藩周辺の耕作地へ転居してしまう傾向があり、黒石藩は商業政策に力を入れていく傾向にならざるえなかったこと、また、前述で記載させて頂いた5千石が実質1万石あったことで裕福だったそうである。
商業政策の力をいれ、乳井通りが青森へ物流の通過点でもあり、浅瀬石川の水源で非常に評判のいいお米を作れたことや酒蔵をもつ造酒家業もあり、ねぷた祭りで弘前藩等から人を呼ぶ仕掛けもうまく相まって大変力のある豪商及び豪農が比較的に多く輩出し、また集まってきて多くの商人が黒石の町並みで商売を商っていたとされている。
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