天保の大飢饉の時もねぷた祭りが行われたようで町民から寄付も多かったようである。
大飢饉の話が出たところで、飢饉の話へ移るが、東北地方であった、弘前藩や東北地方各地では餓死者等の大変悲惨な東北地方の三大飢餓を少しでも軽減できた一つの要素だったような気がします。
もう一つの飢餓を軽減できたのは、飢饉の際の藩の対応が早く米を持ち出すことができない米留番所が設置され点、商人の割合が多く、豪商で近江商人の血筋だあった子孫も多くいたおかげで御用金が調達しやすく、商人への農民に米を分け与えるよう藩が命じたりすることもあったようである。
ねぷた祭りも大いに活用した黒石藩は、人を集め藩は献金も集めみ、町民のガス抜きとして、大いに活用していたようである。けんかねぷたともいわれ、けんかはつきもののようであった。
ここで、少し歯車がおかしくなったのが、文化6年4月、6千石を加増され1万石の大名になってからではないだろうか、きっかけは少し遡る天明7年に廻船問屋から藩は150両を借用し、この点、天明飢饉から商人からの借用が増加していくきっかけになったように思われる。
大名になったのであれば、参勤交代をする必要になり、次第に黒石藩の藩財政の逼迫するようになっていった。
藩が借りた金銭を帳消しにしたり、財政問題を改善するために商人を侍にして、借用金銭を減額する対策を取ったようである。
幕末には、新政府軍につき函館戦争に参加し、明治維新から多少良いスタート切ることができたが、藩が返済を約束した借用金も返済されることなく、明治元年になり、倒産に追い込まれた商人が大変多くあったようである。
黒石藩も明治2年に版籍奉還を決定し、藩所有の土地や人民を朝廷に返還した、明治4年7月廃藩置県により黒石県になりはしたが、
明治4年9月に弘前県に館県,斗南県、七戸県、八戸県と共に合併され、黒石藩主津軽承叙は明治2年に版籍奉還で知藩事となりになれた明治4年の廃藩置県で免官となった。200年続いた黒石領、黒石藩、黒石県の歴史はここに終った。