その後も明治、大正、昭和の黒石は明治に入り大凶作も数回あり、
商業家が1年毎に衰弱して来たのです。明治十二年、浅瀬石~黒石間に新道開通、
黒石の酒造業が本格的に動き出したのは明治二十年代に入ってからである。時代の傾向は品質向上、改良酒の醸造に向かっていた。
明治十二年、浅瀬石から黒石間に新道が開通し、奥羽線の開通によって開設された川部駅から黒石までの鉄道が大正元年に開通したことで遅れていた黒石の経済が徐々に盛り返していった。
明治末期になり黒石町は南津軽郡の中心地として発展することになった。
明治末期から黒石の発展に一役買ったのは、明治維新以降、新政府が行った、各地域への武士階級への雇用対策の一つでりんごの苗の配布により、リンゴ農家への転職政策が黒石では明治24年から徐々に芽が出始め、主要産業のひとつに育っていき全国にも有数なブランドになり、太平洋戦争や数々の困難を乗り越えれる産業を確立することに成功し現在の黒石はリンゴという主要産業で現在があるといえる。
このリンゴ農家も、江戸時代の近江商人だった末柄が根気よく時間をかけ品種改良も行い、直接、東京に市場を求めていき、現在でも使われているリンゴ箱もその当時のアイデアから生まれたものである。
前回までにご紹介した伝統的建造物群保存地区のまちの成り立ちと歴史観の違いを大いに感じる黒石でした。
この黒石は、江戸末期に黒石藩の借用金を返済できず力のあった商人が数多く倒産し、経済が急激に収縮し、鉄道が引かれることが遅れたおかげでのこの黒石市中町こみせ通りが残った要因だと考えられます。
しかし、自動車社会になりどこの地区でも同じであるが衰退と人口減少には勝てず衰退の一途をたどっている。
このような時代の流れの中で、伝統的建造物群保存地区の黒石市中町が現在の姿が出来上がった。どの地区にもみられるが近代化の波にのることができず発展から取り残され、阻害されたことにより現存しているこの黒石市中町地区である。
今回の黒石市中町は、「津軽信英プラス近江商人プラスねぷた祭り」が作り上げた特殊な地区であると感じました。
もうひとつ、この地区の特徴として津軽信英がいなかったら、この江戸初期から残る町並みが今でも残ることができなかったと思いました。
この黒石市中町の伝統的建造物群保存地区は日本で唯一のこみせ(アーケード)がある伝統的建造物群で、上記の歴史観をもとに再度訪れてみたいと強く感じました。
以上、乱文ですが、お付き合いいただきありがとうございました。