伝建地区を歩く 角館(2)

伝建タイトル
 さて、角館に最初の城下町を創建したのは、この戸沢氏 十八代盛安だとされており、中世末期、小松山(現古城山)の北側の山麓に城下町を築きました。
関ヶ原の合戦後の慶長七年(1602年)、戸沢氏が常陸多賀郡へ転封し、佐竹氏が秋田へ入部して久保田藩領となったあと、翌1603年、佐竹義宣の実弟にあたる蘆名盛重(のちの義勝)が所預として角館に入りましたが、この当時、北側の城下町は、狭隘な上に、舟運の便も悪く、水害や火災にしばしば見舞われるなど、地の不利が多かったため、1620年(元和6年)、蘆名盛重(のちの芦名義勝)は、現在の位置である古城山の南麓へ新城下町を建設しました。
新しい城下町の建設地である南麓は、西の檜木内川が自然の堀となっており、北が丘陵地、東には小残丘が点在して、南にひらけ、南西側は檜木内川と玉川の合流点もあって天然の要害となりました。
 この新しい城下町、角館町は、芦名家の城郭であり、角館町への入口は警備によっても厳しく守られていました。
また、町は道路の幅員を広げるとともに見通しを避けるなど工夫をこらし、下水も整備されました。町割りでは、大火対策として、南北に細長い町を東西に貫く形で中央に土塁も築いています。
この土塁が、前述にもある「火除け」で、この北側に武士の居住区である「内町」を、南側に町人・商人の居住地である「外町」を配置しています。
この「内町」と「外町」とは、割然と区別され、武士の住んでいた町名には「丁」、商人町には「町」をつけるなどし、境界には門を設けていました。
 なお、この1620年(元和6年)は、一国一城令が出された年でもあり、この流れで角館城は破却されてしまったため、新城下町の造成は急を要したと思われます。
蘆名氏の支配は3代続きましたが、承応二年(1653年)蘆名氏が断絶すると、代わって明暦二年(1656年)に佐竹氏の分家である佐竹北家の佐竹義隣が角館に入りました。
佐竹北家の支配は、以降明治まで続きますが、この角館初代佐竹義隣と二代目義明夫人が京都の出で、京都の生活と文化を取り入れたため、現在も残る「みちのくの小京都・かくのだて」の町並みとなったのです。
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