伝建地区を歩く 角館(3)

伝建タイトル
それでは、この仙北市角館町はどのように発展、衰退していったのでしょうか。
重要になってくるキーワードは「鉱山」×「大火」×「戊辰戦争」です。角館の発展は久保田藩(秋田県)と密接な関係にあるため、この3つのキーワードにそって角館および久保田藩の歴史を探りたいと思います。

まずは第一のキーワード「鉱山」から、久保田藩・角館の財政を見ていきましょう。
この当時、久保田藩には、阿仁・大葛・早口・檜木内・杉沢・院内・荒川·畠·八森·増田など多くの鉱山があり、巨額の銀のほか、金・鉛などの鉱産物も産出していました。
通常、江戸幕府の主要な財源とされる地域は直轄地とされ、交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、建築用材の産出地は編入されたものですが、久保田藩は、院内・阿仁の両鉱山、さらには大葛鉱山等も藩営とし、藩の財政は、森林資源の「木山(きやま)」、鉱山資源の「金山(かなやま)」が支えていました。林業では軍艦・城用木材として秋田杉が有名で、家老渋江内膳の「国の宝は山なり」との言葉も残されています。
また、角館町は、檜木内川の上流と玉川の支流が交わる位置にあり、且つ、角館-長野間に通じる「角館街道」で大曲から仙岩峠に至る街道沿いにあるというとても良い立地であったため、米の集散地としても発展しました。米商人が成長し、酒田·敦賀の港、そして大津(後年は大阪)の米市場へ関係が持てるほどの大商人に成長した豪商も現れたと思われ、こうした好条件の中で角館の町としての発展が進んだのだと考えられます。

鉱山の話に戻りますが、特に院内銀山は、金及び銀を産出し、江戸時代を通じて日本最大の銀山でした。伝統工芸の秋田銀線細工も豊富な院内銀山の産出した銀によるものでしょう。また、阿仁鉱山も、金、銀、銅が採掘され、特に銀鉱、銅鉱の産出では、1716年 産銅日本一となり、長崎輸出銅の主要部分を占めていました。
もちろん戸沢領内にも金山はあり、特に檜木内川上流は砂金の産地だったため檜木内村金山として栄え、佐竹時代に至っても継続しています。また中川地区の日三市、北沢、小勝田の古金山、雲然の坊沢古金山は、みな戸沢時代開発されたものであり、特に坊沢金山は戸沢時代から芦名時代にかけて栄えた金山で、町屋跡など今日にも当時の面影をとどめています。
鉱山は人や物を集め、角館においても重要な財源の一つであったようです。院内銀山の最盛期には、久保田の城下町を上回る、4,000戸、15,000人もの人口が集まり、久保田藩内で最も大きな村となり、「出羽の都」と言われるほど繁栄したといわれています。
鉱物の中でも銀は、江戸時代以前から、鋳造者である富商や両替商の極印がされた灰吹銀および極印銀が流通しており、角館・横手沢・能代などで鋳造された銀も、領国貨幣の秤量銀貨(量目によって貨幣価値が決まる通貨)として流通しました。この極印灰吹銀は、江戸時代の丁銀の原型となり、元禄八年(1695年)からは幕府からの依頼による幕府発行の丁銀・小玉銀との交換が80年間あまり続きます。それゆえ、元禄年間の藩財政は安泰で経済も安定、久保田藩のみならず角館にも大きな恩恵を寄与していたものと思われますが、17世紀に入ると産出量が激減し、銅山のみの稼働となってしまいます。
鉱山・林業・米商人により、財政には余裕があったように思えた久保田藩ですが、実情以上の家臣団と彼らの占める知行地によって、財政は常に圧迫されていたようです。鉱業の衰退、林業も乱伐によって一時衰退し、しだいに金融事情は悪化、藩の財政は貧困化し、元文年の鋳銭·宝暦の銀札発行により財政困難を増嵩して、銀札廃止後の処置は藩財政を窮迫させ、廃藩にまで追い込むことになるのです。
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