第二のキーワード「大火」も、鉱業・林業の衰退に影響を及ぼしたと思われます。
角館は、北側に城下町があったころから、水害や火災にはしばしば見舞われていましたが、火災は新城下町移転以降も続きます。町割り「火除け」に代表されるように、火災に強いまちづくりは考慮されていたのですが、それでも、焼失戸数100戸以上の大火が八件、450軒に満たない角館の町の屋敷の大半を焼失する大火も二件発生しています。こういった大火によっても久保田藩内の森林は次第に減少していきます。森林と鉱山の関係は深く、もともと、鉱物を製錬するには大量の木材(炭)が必要で、一つの精錬所に対して、なんと1,800haの森林面積が必要だったそうです。これは東京ドーム320個分、名古屋市千種区相当で、秋田県内80ヵ所前後の鉱山に相応する森林面積は莫大でした。江戸後期には森林は相当減少していたと思われ、このころから鉱山も、産出減少や廃山するところが増えていきます。
さらに、明暦二年(1656年)の大火により角館町は深いダメージを受けました。久保田藩に救援を要請しましたが、それでも、角館町の力は急速に削がれました。
そんな状況の中、宝暦·天明·天保の大飢饉、安永·天明の二大火災事件も起こり、町民はいっそう苦しみましたが、「町勢に衰退の色なし」と思われるほどの立直りを見せたそうで、第三のキーワードである「戊辰戦争」では武士も町民も百姓も一丸となって侵入軍撃退に当ったといわれています。