この第三のキーワード「戊辰戦争」は、明治以降の久保田藩や角館町の運命を決めたと言っても過言ではないでしょう。
戊辰戦争で久保田藩は東北地方で唯一官軍側につき、周囲の奥羽列藩を敵としたことで領地の2/3に及ぶ広範囲が戦火に晒されました。しかも新政府軍に与して列藩同盟軍に攻撃された周辺諸藩の藩主・藩士や西国からの援軍の賄いをすべて久保田藩が負担したため、軍事費の面でも藩財政を締め上げたと思われます。
四面楚歌の状況下で、戦争当初は相当厳しい戦いだったようですが、明治政府より派遣された佐賀藩兵の助けがあって状況がかわり、官軍が勝利します。この働きにより、久保田藩は新政府から優遇され、明治時代に入ると鉱山の開山が増えて、角館の財政も一時的に潤ったようですが、実際に政府から与えられた賞典は戦費・戦災にまったく見合わない少額に過ぎず、借財に耐えかねた久保田藩は加護山製錬所での貨幣鋳造で凌ごうとしましたが、明治2年(1869年)5月に政府は各藩独自の藩札発行・貨幣鋳造を禁止しました。久保田藩は禁止以後も密造を続けていたとして政府で問題視され、明治4年に処罰。その後鉱山事業も衰退し、久保田藩の廃藩とともに角館も衰退していきました。
どの伝建地区にも言えることですが、伝健地区には、それぞれの歴史が築き上げた特別な町並みが残っています。この角館地区もまた、「鉱山」×「大火」×「戊辰戦争」というキーワードの掛け算により作り上げられていました。
以前、この伝統的建造物群保存地区「仙北市角館」を実際に訪れたときは、素朴で整った街並みに只々癒されましたが、今回調べた歴史観をふまえて振り返ると、廃坑や採石場後が現在も多く残っていることや、鉱山の経済効果によりできた立派な町並みの各所にも「大火」が数多く発生していた影響が残っていること、ほぼ江戸時代のままの区画や特有の形態を示している町割りなど、歴史的背景がたくさん感じられました。仙北市角館は今に残る貴重な文化財であると言えるでしょう。改めて仙北市角館を鉱山で出来上がった町並みを含めてゆっくりと歩いてみたいと強く感じます。
以上、乱文となりましたが、お付き合いいただきありがとうございました。