伝建地区を歩く 大内宿(2)

伝建タイトル
では、江戸時代以前の下郷町はどうだったのでしょうか。
記録を遡ると、大内宿は、下郷町の38集落の1つでした。また、大内地区からは、5 ヵ所の塚や散布地が発見ざれており、古くからこの地に人が住んでいたことが窺えます。宿場の形式を記録した資料がないため、明記することはできませんが、江戸時代の初期に、散在していた古内村、宮内村、糠塚村を坂本村に集め「山本村」と称し、これが後の大内村の基礎になったといわれています。

山本村から「大内」と改められた所以は、伝承によると、1180年 後白河天皇の第三皇子(『平家物語』では第二皇子) 高倉以仁王が、平家打倒を画策し挙兵した宇治平等院での戦いに敗れ、渡部唱等と越後国小国の領主小国頼之(源頼政の弟)を頼り逃亡、当時の山本村に逗留した際、この里が宮中の大内(だいり)に良く似た風景だった事から、呼称を大内と改めたと伝えられています。
この以仁王は平安京での邸宅が高倉小路(三条高倉)にあった事から三条宮、高倉宮とも呼ばれ、神仏習合下では高倉大明神として信仰の対象になっていました。大内村は以仁王を高倉大明神として観請し、1870年(明治3年)に高倉神社と改めてから、今もなお、村の鎮守として祭っています。
現在も続く例祭の「半夏祭り」も以仁王に関連しており、当初は以仁王が大内宿に潜行していた5月に行っていましたが、田植えの時期と重なる事から「半夏」の毎年7月2日に移されて、現在の「半夏祭り」となっています。
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