では、この「大内村」が「大内宿」になったのはいつからなのでしょうか。
1590年(天正18年) の記録によると、この年、伊達政宗が小田原参陣の際に会津西街道を使い、大内宿まで進軍、敵兵が多かった事から一端引き換えし米沢城(山形県米沢市)を経由して小国、越後、信濃を経て小田原参陣を果たした、とあります。また、同年に豊臣秀吉が奥羽仕置き(奥州仕置き)を終え、黒川城から宇都宮城(栃木県宇都宮市)に戻る際に、会津西街道を利用して大内宿を通過した、との記述もあり、このことから、戦国時代末にはすでに、会津西街道の大内村はある程度の宿の機能を備えた村だったと考えられます。
江戸時代に入ると、大内宿は会津藩領となります。1643年(寛永20年)、保科正之が藩主について以後、会津藩は会津松平家(保科家)の支配が定着しますが、初代藩主 保科正之は会津西街道の整備を行い、大内宿も宿場町として整備が進みます。このあたりが大内宿の発展のピークだとも言えますが、当初は会津藩主松平家の参勤交代で会津西街道を利用していた為、大内宿には藩主など身分が高い人物が宿泊や休息で利用する本陣や脇本陣が設置され、重要視されました。この屋敷割が、現在の下郷町大内宿の原形となり、今に続いています。
この会津西街道は、会津藩主の参勤交代で22回使われたとされており、参勤交代は概ね500~600人の家臣などを引き連れての行列だった事から参勤交代の際は大変な賑わいだったと思われます。また、江戸時代初め、会津西街道の通る下郷地内には会津藩が設置した宿駅として大内宿・倉谷宿・楢原宿の三宿がありましたが、大内宿の前後には会津西街道の中でも難所とされる大内峠や中山峠が控えていた事もあり、独立した宿場町として発展します。旅籠や問屋などが設けられ、江戸廻米、会津領物産等の物資の集散地や、旅人や商人達の宿泊地、休息地としても賑わいをみせていました。