前回、江戸時代が下郷町大内宿の発展のピークだと記述しましたが、それでは、江戸時代以後大内宿はどのような歴史を辿ったのでしょうか。
ここから注目したいキーワードは「天災」×「会津戦争」×「2つの奇跡」です。
まずは第一のキーワード「天災」。下郷町大内宿は本当に多くの天災に見舞われた地域でした。
大内宿の北部には、会津盆地西緑断層帯と会津盆地東緑断層帯があり、会津地方はもともと地震が多い地域でした。先述しましたが、会津藩蒲生家の時代、1611年(慶長16年)に会津盆地西縁断層帯を震源として発生した「慶長会津地震」が会津を襲います。
若松城の城下町では、石垣が崩れ、堀が埋まり、寺院仏閣·神社堂塔が大破、町家や民家もほとんど全壊し、山崩れが会津川(現在の阿賀川)を堰き止め、山崎新湖ができました。23の集落が水没し、死者3,700人以上の被害や犠牲者があったそうです。
また、大内宿の南部 田島町付近にも関谷断層があり、1659年(万治2年)の田島地震で、民家197軒、土蔵39棟、死傷者87人の被害がありました。
同じく関谷断層で、1683年(天和3年) には、「日光江戸地震」「日光会津地震」と2つの大地震があり、うち、日光会津地震では、五十里村の南を流れる五十里川が地震による山崩れで堰き止められ、その影響で五十里湖が出現して、会津藩では深刻な問題となりました。五十里村も水没してしまったため、大内宿発展の要であった会津西街道が使用できなくなり、新たな街道整備で会津中街道ができたのが13年後。しばらくは江戸に向かうためにこの会津中街道を使うことになりましたが、この会津中街道は、使い勝手の悪さで開通から10年で脇道に格下げになり、大名や商荷までもが白河街道に移ってしまうこととなります。
街道と密接な関係にあった大内宿にとって、この日光会津地で会津西街道が使用できなくなったことは非常に大きな痛手となったことでしょう。
また、それから260年後の1943年(昭和18年)にも、マグネチュード6.2の田島地震が発生、2011年に発生した東日本大震災も記憶に新しいと思います。
大内宿を襲った天災は地震だけではありません。
1723年(享保8年)には、暴風による五十里洪水で五十里湖が決壊します。このころ、会津西街道が復活し、会津藩が会津西街道の通行利用を奨励しましたが、物流がなかなか伸びず低迷した状態が続いたようです。
また、全国的な異常気象により、1642年(寛永19年)、1643年(寛永20年)に起こった寛永の大飢饉では、会津藩にも大きな被害があり、餓死寸前に追い込まれた百姓2000人が、田畑や家を捨て、妻子を連れて隣国に逃走したと記録されています。
この寛永の大飢饉の影響を受け、1655年(明暦元年)、当時の会津藩主 保科正之が全国先駆けて「社倉制(米を蓄えて貸し出す制度)」を設け、大内宿が所属する南山御蔵入領(大内宿)でも16年後の1671年(寛文11年)に社倉制が始まりました。
しかし、1783年(天明3年)の浅間山の大噴火(天明噴火)や、全国各地での火山の噴火が相次ぎ、冷害の被害をますます大きなものとし、1783年~1787年(天明3年~7年)は「天明の大飢饉」となりました。南山御蔵入領の村々にも非常に大きな被害を与え、南山御蔵入領での死者数は2,452人と報告されています。
天災は止まらず、天明の大飢饉の傷が癒えないうちに「天保の大飢饉」がくることになります。この飢饉の被害を示す資料として、会津藩楢原村の民家の数は、1788年(天明8年)は443軒でしたが、1837年(天保8年)には281軒になったと文献に記載されています。半数とは言わないまでも3分の1の軒数が減少することとなりました。大内宿に関する資料ではありませんが、大内宿も同じような状態であったことが推測されます。
明治に入ってからも、1902年(明治35年)に、台風の風水被害や洪水被害による凶作に襲われ、当時の調査で、飢餓になる・3ヵ月後に飢餓になるおそれのある人を合わせると、南会津郡の全戸数の約4分の1となる26.9%、また全人口の約4分の1となる人口の21.9%が飢餓になるおそれのある状態にあったようです。