続いて、第二のキーワード「会津戦争」は、明治以降の下郷町の大内宿の運命を決めたと言っても過言ではないでしょう。
会津戦争は、1868年(慶応4年/明治元年)に勃発した戊辰戦争の局面の一つで、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟等の徳川旧幕府軍との間で行われた戦いです。
当時の藩主であった会津松平家(保科家)は、第3代目藩主 正容の時代に保科を松平に改め、会津松平家となりましたが、会津藩祖 保科正之が徳川家に忠義を尽くすことを藩の方針として定めた『会津家訓十五箇条』が代々家訓として引き継がれていました。幕末の藩主・松平容保は「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」という教えを最後まで守り、佐幕派として薩長軍と戦い敗北したのでした。
会津戦争では、大内村周辺でも大変激しい戦が行われ、劣勢になった会津藩の軍が、敗走する際に会津西街道周辺の村々を焼き払いながら敗走したそうですが、大内宿は奇跡的に焼き討ちを逃れ、現存することができています。
しかし、会津戦争で反新政府軍となってしまったことにより、城下町や周辺村々が戦火に巻き込まれ、大きな代償を背負うことになりました。尚且つ、明治政府の厳しい監視下に置かれたため、近代化の発展が遅れます。
明治10年代、全国では既に鉄道敷設が始まっていましたが、大内宿周辺はその波にのることができず、馬車道を開くのが精いっぱいだったようです。1882年(明治15年)、越後街道・米沢街道・会津西街道を馬車道として開削改修し、1884年(明治17年)大川沿いに付け替えとなって日光街道ができましたが、大内宿は、その新道の日光街道からも外れてしまいます。1899年(明治32年)に、岩越鉄道が若松駅(会津若松駅)まで開通して以降、1927年(昭和2年)まで大川沿いに順次延伸開業しますが、街道から外れてしまった南会津は物流も通らなくなり、大内宿も宿場町として次第に衰退することとなります。